「ここでやらせてください」
そう頭を下げた日から娘は変わりました。
2月後半からすでに開講していた予備校の準備講座に、私立後期の結果が出揃う前から娘は通い始めました。
授業開始は9時からでしたが予備校自体は7時に開くので、始業前の2時間を0時限目と自分で決めて、この日から正真正銘、土日も含め1日も休むことなく毎日7時前に門の前で扉が開くのを待ち、予備校が完全に閉まる22時まで勉強に没頭しました。
そこからは、私は見守るだけ。
6時少し前に起きてくる娘のために朝食と温かいお弁当を用意し、夜は23時近くに帰宅するのを待って夜食として具沢山のスープなどを日替わりで食べさせ、清潔な部屋と衣類を準備する。
一日中座っているので足がパンパンに浮腫んで辛そうなので、アロマオイルでマッサージしたり。
同じ志のクラスメイトたちとの、少しの交流の話を聞いたり。
お夜食の間の20分だけ、一緒にテレビを観ながら笑ったり。
確立した彼女なりのペースを崩すことなく、淡々と、着々と課題をこなしていたようです。
通っていた予備校ではマンスリーテストというものがあって、毎月順位が張り出され、その結果によって前期後期のクラス分けがされました。
このマンスリーテストのプレッシャーは生半可ではなく、テスト前の生徒たちの顔色は変わり、その度に具合が悪くなるクラスメイトもいたそうです。
クラスメイトの中には2浪、3浪の生徒もいて、後が無いという切羽詰まった状況を思うと胸が苦しくなります。
入塾前からこのシステムを知っていた娘ですが、このくらいの負荷が自分には必要だと覚悟を決めていたのでしょうね。毎回のテストの結果に過度に振り回されることなく、先生の言葉を素直に信じて、困った時には恥も外聞も捨て助けを求め、ひたすらに、本当にひたすらにしがみ付いていきました。
秋頃、娘は強烈な不安に襲われ、何をしていても自然に涙が零れてしまう時期がありました。
1日のうちで寝ている時間を除いたら、娘と一緒にいる時間が1時間あるかないかだった私は何の手立てもなく、ただただ「大丈夫、大丈夫。」と背中をさするしかありませんでした。
私立の医学部受験は1次2次と日程が入り組んでいて、パズルのような受験スケジュールを管理する必要がありました。ほとんどの大学で志望動機と自己推薦書などを要求され、出願だけでもかなりの手間が掛かりました。
娘は旧設3校と新設3校に出願しました。
試験は一般的に新設の、偏差値帯でいうと比較的入りやすいと言われる(実際には私立医の難易度は偏差値で測れるものではないです)大学から始まり、徐々に難関と呼ばれるものへと移っていきます。
娘の受験もそのように始まりました。
初日は、東京の私立医受験のメッカ?笑
五反田でした。
100名そこそこの募集に対し3000名前後の志願者が集まりますから、総合大学ならまだしも、単科大学が多い東京の私立医では会場の確保もままならないのでしょうね。五反田の会場では日替わりで医学部入試が行われます。
他の会場としては新宿のホテルだったり幕張メッセだったり。
どこもアイドルのイベント会場のような盛況になるわけです。
現役の時にはどの会場にも私が付き添いました。
万が一の時不安にかられるより、一緒にいた方が手っ取り早いと思ったから。
振り返れば私自身も随分と娘を甘やかしていたんです。
でも、初めて五反田に向かった現役受験の時、付き添って良かったと心から思いました。
五反田駅から会場までの道のり、受験生が歩く一本道の歩道には各予備校から派遣されたスタッフ達が隙間なく連なり、これから試験を受けようという受験生達に、不合格だった場合のための予備校の資料をこれでもかと突き出していました。
(確かに合格できるのは1/20くらいなのだから、営業としては理に適っているのかもしれないけども)
左右から伸びるその無遠慮な無数の手の間を避けることもできずに、受験生達は戸惑い資料を押し付けられられながら進むわけです。
私は、娘が動揺しないように他愛もない会話を続けながら、一切資料を受け取る気がないオーラを出しまくって、娘を守るようにその一本道を歩きました。
恐ろしい光景だと思いました。
うちの子はまだ東京出身で親も付き添っているから良いけれど、たとえば地方から遠征してきていて、人生初めての受験で右も左も分からず不安でいっぱいなはずの受験生がいきなりこんな場所に放り込まれたら、平常心でいろというほうが難しいと思いました。
まあ娘は私の必死の防御の甲斐もなく、そもそも土俵にも乗っていませんでしたから順当に不合格となりましたけど。
話が逸れました。
続きます。